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筆文字で思った文化に対する思索。それは呪いのかかった生命のようなものかもしれないと…

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筆文字で思った文化に対する思索。それは呪いのかかった生命のようなものかもしれないと…

筆文字を使ったチラシは売れない?

フォントに筆文字フォントが出る前には、実際に書道家の方へ書いていただいたりしていた。

そして、その頃私は宅配寿司の広報に勤務していて、日夜といわず、ぶっ通しで働いていたわけなのです。

もちろん『寿司』という和風な素材なので明朝系のフォントも使うのですが、筆文字フォントもデザインしやすいので積極的に使おうとしていました。

その時、私の上司が、今回筆文字やめとこう…というので、訝しげな顔をして、私がなぜかを問うと、苦々しい顔をして小声で「社長に言わんでよ…」と前置きしながら、筆文字使ったチラシが、のきなみ負けていると。負けてるというのは『前回との対比で売り上げが低い』という意味でした。

「なぜだろう?」

私はいくつか仮説を立てていたのですが、仮説を立てただけで検証するまでには至っていません…。読まれる方はそれを前提にご確認ください。

筆文字はある意味絵柄と認識され、言葉として意識に残らないので、見た人にインパクトを残さない。

筆文字は高級すぎるイメージがあるので、安価な商品を求めている一般のお客様へアプローチしにくい。

そもそも、筆文字が表現する格式が、恐れや威圧に感じてしまうために、無意識的にシャットアウトされてしまう。

自分的には、どれも当たっている気がしています。

商品によっては、効果が出るのでしょうが、実は、文化的な筆文字自体は、ある特性を持つ商品以外は、商品のPRに対して適していないというのが私の感覚です。


筆文字は、日本というものを表現する文化そのもの?

言語の90%以上を理解しようとする場合
フランス語なら約2000語
英語なら3000語
ドイツ語なら約5000語
日本語なら10000語が必要と言われているようです。

そんな文字や言語にこだわる国であった日本。

特に言語に対する『型』を作り上げることに対して、凄まじいこだわりを持つ国であった気がしてます。

古文という今ではほとんど一般の人たちが触れることがない呪文のような言葉で紡がれた文字。和歌や川柳などの言語遊びなど…。

文化自体は、経済活動と相反するものである気がしています。

だから、文化というステージに場所を移したものは、一般とは隔絶した様相を呈することになる。


例えば…。
陶芸、絵画、それらが経済の中心としての地位を勝ち得ることはなく、それらは文化として、歴史の中の時代を反映する。過ぎ去った過去を検証するための文化的な遺産、つまり、保護されるべきものとして存在するようになる。

でなければ、経済という利益中心に動く世界に翻弄されながら精度を保つことなどできなくなるから。

また、今現在、文化になりかけているものとして。
紙の書籍なども挙げられると私は感じています。

職人の仕事だった印刷という作業

紙の書籍の技術はほとんど、職人によって手作業で作りあげられていました。

それが、一瞬にしてMacintoshとAdobeという二大革命によって職人の世界から、皆がすべからくデザインするという作業に参加することができるようになった。

職人の技術が滅んだ瞬間でした。

DTP(デスクトップ パブリッシング)という言葉でデザイン自体がデジタルに置き換わる前には、デザインという職業は、職人たちの超絶な技巧が支えていました。振り返るたびに、まさに文化として頂点を目指し続けるように技術を磨き上げている職人達だったと思えます。

例えば…。

デザイン作業の末端とも言える文字組にもデザイン事務所のみで成立するものではなく、写植屋さんという職業と共にありました。

写植とは、写真植字と言い、文字を印画紙に焼き付ける作業。

今、私がこうやってブログを書いている文字など紙の印刷として表現する時に、どのような状態で打ち込んでいくかという指示をデザイナーが行い、写植屋さんへ送る。

その指示を確認しながら印画紙に印刷する文字のパーツを作っていく。それが写植屋さんの仕事でした。


文字の配置は、行間全角アキや、文字のツメなどが1H(一歯=0.25mm=1Q)送り・ツメなどの手書きの指示でした。それを写植屋さんへファックスで送るわけです。

それほどまでに、頭の中で文字の並びに対しての感覚を研ぎ澄ませているデザイナーがいて、そのデザイナーが指示する文字組の癖を知っている写植屋さんがいて、指示が抜けていたりすると「ここは、成り行きで改行していいんですか?左右ゾロエ?左右10cmの箱打ちにしておきましょうか?行頭は落とします?」などと、指示抜けを確認してくれたり…。

今は、そんな言葉を聞いても、理解する人もいなくって、何を言っているかわからない…と苦笑いになるのが現実ですよね、実際。

私が駆け出しだった時代は、そういった、デザインに関する恐ろしい熟練が必要な時代だったのです…。

一瞬にそんな熟練工が消え失せたデジタルの時代。

さて、今では、もう誰もが紙でデザインを作り上げることができて、一般の人たちがオフセット印刷まで依頼できる時代です。

一般の人たちに、チラシのデザインはできていても、実は紙の書籍には、まだ、凄まじい熟練工のようなデザインが活きています。

昔、私が百貨店のデザインをしていた時に参考にしていたのは家庭画報という夫人雑誌でした。

写真の撮影の仕方や小物の選別から配置、ライティング。それを際立たせるための文字組、色使い。
それらが恐ろしい精度でレイアウトされ組まれているのです。

しかし…。

そういった高い精度を誇る雑誌が、果たして一般の顧客からの絶大な指示を得て発行部数を拡大するか?と言えば、それはありえない。

すでに、この技術は文化になってしまっているのです。きっと…。

今、私は家庭画報という雑誌を読んでいる人を知りません。

小説も文化となっていく

そして、小説も然りかもしれません。

かつての文豪と呼ばれた一部の人たちはもちろんですが、私が夢中になって読み耽っていたSF小説の創世記を作った人たち、特に小松左京・平井和正・星新一・筒井康隆。

彼らの文章は、科学や人の集団心理や残忍性、狂気などを熟知してなお、作品の組み立てや表現力に関して素人が考えも及ばない技巧を持ち、私たちを夢中にさせました。

しかし、今はそれは昔。
古典のSFと化してしまったのかもしれません。

それもまた文化。

文化とは、実はたくさんの呪いのような人の生き血を吸って、クオリティを高めてきたと思えます。

しかし現代は、もはや、そんな時代ではない。

死体の匂いがする筆文字への恐怖

筆文字への恐怖を、私はなんとなく感じます。

制御できない墨の飛び散る様を、無理やりに飼い慣らすように、感情と鍛錬で繰り返し行われる書くという作業でありながら、書くという儀式。

それ自体が自分の内奥を表現し、曝け出す行為だから。それを見た時に、見た人に緊張感を強いるのだと考えています。

その人の筆致が描き出す、血糊のような情念を、日常を淡々と生きる人たちは受け止めきれないのではないか…。

しかも、筆で書かれたその文字は、見た人に生きて何かを伝えようとしている…。
まだ、死体安置所へ送られていない文化が、何かを語りかけてくるというホラーめいた想像をしています。

これは私の妄想的な思索でしかありません。しかし、私はそうイメージとして捉えてみるとしっくりといくのです…。

文化とは、すなわち呪いの残滓である。
呪いの墓場である。

だからこそ、血の通わない死体安置所のような博物館や美術館に押し込めて、ホルマリンに浸かっているような歴史の死体を見つめるのだと思っているのです。

なぜ、美術館が面白くないのだろう。
なぜ、博物館がつまらないんだろう。

おそらく、それは歴史の死体だからじゃないかと、私は思い当たったのです。

雑誌もそのうちホルマリン漬けになっていくだろうと思うのです。小説もそのうち…。

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